ITオンチ、無職ブロガーTG

ラテン音楽、野球、旅、ライフスタイルについて書きます

どの英語資格を取るべき?とりあえずTOEFLでハイスコアを目指せ!

英語の資格ってイロイロある

TOEICTOEFL、IELTS、英検、etc・・・
 
英語の資格って、複数あります。
これからマジで英語を始めるというあなたは、自分がどの資格を取るべきか迷っているかもしれません。
 
今日は、そんなあなたに断言する。
 
 
どの資格か分かんねーなら、とりあえずTOEFLを受けろ。
 

TOEFLはあなたの英語能力を示す世界の共通言語

どの英語資格を取ったらいいか分からない。
だったら、TOEFLを受けておけ
 
なぜ、そう言い切れるのか?
それは、あなたの英語の能力を測るという意味では、TOEFLが世界基準だからです。
 
TOEFLは、世界基準。
世界基準という事は、どこでも通じる汎用性がある。
 
TOEFLのスコアさえあれば、世界中どこの国に行っても、あなたの英語力を証明する事ができます。
 
 
さらに、あなたが英語を始めた理由が、
 
・英語を使った仕事がしたい
英語圏に留学したい
 
 
こういう理由なら、私のアドバイスは間違いないです。
 
 
ただし、ハイスコアを取って下さいね。
これは大前提です。
 

あとがき

目的や状況次第では、TOEFL以外の英語資格を取得する方が好ましい事もあります。
その辺については、以下の記事で説明しています。
 
関連記事:TOEICを受けるべきケース
関連記事:英検を受けるべきケース
 
あわせて読んでみて、ご自分の状況に照らし合わせて見て下さい。
私の意見が、あなたの人生の糧になると嬉しいです!
 
Dream big and live it!

私にも夢があります。それはキューバでダンスを勉強する事です。

TGです。
 
A型、乙女座、ほぼ32歳。
 
所帯持ち。
子供二人。
 
無職、金欠。
あまり人と会いたくない。
人と会うのが怖いです。
 
 

私には夢があります。

そんな状態でも、どうしてもやってみたい事が一丁前にあります。
やらずに死んだら、確実に後悔するだろうなと思う事があります。
 
 
それは、キューバに住んでダンスを勉強する事です。
そして、ダンスを上手になるために、音楽もちゃんと勉強する事です。
 
 
10年でも20年かかってもいい。
一人くらい、キューバキューバ人に混じって、遜色なく踊っている日本人になりたい。
 
 
テクニックじゃなくて熱いハートがある。
体の使い方がキューバ人みたいだ。
 
 
そんな風にキューバ人に認められたいです。
 

何でキューバでダンスをしたいの?

説明できません。
理屈じゃないんです。
 
でも、ただ楽しいんです。
キューバの音楽を聴いている時、自分の体の中が渦巻く感じがするんです。
踊れないくせに、それに乗って踊っている自分を想像すると幸せなんです。
 

日本で習ったらいいんじゃないの?

確かに、日本でも習えます。
しかも、日本人の先生はキューバ人が感覚で片付けるところまで、ちゃんと教えられるように考えぬいておられる方が多いです。
 
でも、自分は本場でやりたい。
キューバ人がキューバ人のように踊れるのは、キューバキューバ人らしく行きているから。
 
私はそこから追求したいです。
単なるダンスではなく、生き方を表現方法としてのダンス。
それをキューバで生きながら、自分のものにして行きたいんです。
 

有給とか使って2週間行ってみたり、1年間留学するとかじゃダメなの?

それも考えました。
 
でも、自分はコレだと思ったら、トコトンやりたい人間です。
バカだと言われてもガップリ四つで組み合いたい。
自分が楽しそうだと思う事だからこそ。
 

いつからキューバのダンスに興味があるの?

20歳の頃からです。
大学の授業で観たキューバ音楽の映画に引き込まれました。
 
授業が終わって速攻で、DVDを借りに行きました。
連続で10回は観ました。
 
時が経つのを忘れて授業があるのを忘れました。
バイトに遅れてしまいました。
 
授業に遅れる事はありました。
でも、バイトに遅れるなんてこの時だけでした。
 
そのくらい、キューバ音楽の魅力に引き込まれました。
アマゾンでこの映画のサウンドトラックを買いました。
 
それまで音楽の好き嫌いを歌詞で決めることが多かったです。
でも、生まれて初めてリズム、メロディー、一体感に惹かれました。
 

そんなに強い気持ちがあるのになぜ今まで気づかなかったの?

自分でも、なぜ気付くのにこんなに時間がかかったのかよく分かりません。
おそらく、自分がもっとしたいと思い込んでいた事があったせいだと思います。
 
 
自分がもっとしたいと思い込んでいた事。
それは国際協力の専門家になる事です。
具体的には、JICAのコンサルタントとして発展途上国に派遣され、貧困問題に取り組む仕事です。
 
あとは、ダンス経験もない、音楽の成績が万年3だった自分には縁のない話だと思っていた事。
ダンスや音楽(広い意味で好きな事)をして、飯を食える訳がないと思っていたフシがあります。
 
 

ダンスがやりたいという事にいつ気付いたんですか?何かきっかけがあったんですか?

二つエピソードがあります。
 
一つ目は大学院時代です。
最初に自分の本心に気付いたのは、大学院で卒業論文を提出した時でした。
論文の著者の自己紹介を書く事が必須になっているのですが、そこに綴ったのは国際協力への想いではありませんでした。
 
なぜか、サルサのダンサーになりたい、ミュージシャンになりたい。
そう書いてしまったのです。
 
 
指導教官が私にかけた最後の言葉は、
 
「せいぜいダンスと音楽で成功してくれ」
 
というイギリス人特有の皮肉でした。
 
 
この時気付いたのです。
自分にとっては、世界の社会問題の研究よりも、ダンスと音楽が好きなのだと。
 
優秀なコンサルタントになって、途上国の人々の問題を解決してあげる事も一つの貢献。
同様に、自分が楽しいと思うダンスや音楽を途上国の人と一緒に楽しむ事も一つの貢献なのだと思えました。
 
であれば、自分が腹の底から楽しいと思える事で貢献したいと考えるようになりました。
 
二つ目のエピソードは、ペルーでキューバ人からレッスンを受けていた時でした。
このキューバ人の先生。
ペルーで一番有名なキューバの先生です。
正式にレッスンを受けるのは初めてでした。
 
私は、先生に思いの丈を伝えました。
 
多少、厳しくてもいい。
 
しっかりとした型を覚えたい。
 
他の生徒みたいに勝手な動きはしない。
 
だから、真剣に教えてくれ。
 
サルサだけじゃなくて、そのベースになっているダンスや音楽についても知りたい。
 
 
先生は私の気持ちを受け止めてくれました。
グループレッスンに加え、プライベートレッスンも受けました。
 
先生が目を見張るほど上達しました。
気がつくと音楽に乗っている自分がいました。
 
キューバ音楽の複雑なリズムに抱きかかえられ、「生きている」自分がいました。
 
 
彼には、正味2ヶ月習いました。
志半ばで日本に帰国する事になり中途半端に終わってしまいました。
 
でも、彼から学んだ事で、本場で学びたい。
キューバの日常を生きる中で、キューバの生き方としてのダンスを身に付けたい。
 
それが、楽しそう。
そう強く確信しました。
 

今まで与えられた環境でどんな努力をして来たの?

時間が許す限り、いろんなお試しレッスン行きました。
 
ネットで動画を探して、それを見よう見まねしています。
今は、お金がないので、無料でできる事に集中しています。
 
そして、代表曲をたくさん聞いて、覚えています。
スペイン語ですが、暗唱できるくらいに。
レパートリーは、ゆうに100曲を超えています。
 

キューバに行ったからって伸びる保証はあるの?

伸びる保証はありません。
 
しかし、練習を楽しんで続ける事。
起きている時間の全てをダンスの体得につぎ込む事。
 
これだけは約束できます。
 
9月で32歳。
もう、寄り道している暇はありません。
 
楽しいと思える事に没頭します。
目標に向かって突き進みます。
 

何でダンスだけじゃなくて、音楽まで勉強するの?

気づいたんです。
 
キューバってダンサーとミュージシャンの境界線がない。
ダンサー兼ミュージシャンの人が多いと。
 
そして、楽器が弾けないダンサーでも、音楽をしっかり理解してるんです。
 
自分もそんなキューバ人を目指したいんです。
その境地にたどり着く事ができたら、もっと楽しく踊れる気がするからです。
 

キューバじゃないといけない理由はあるの?

キューバじゃないとダメです。
キューバがいいです。
 
例えば、私がエルサが好きだったとします。
でも、エルサじゃなくて、アナじゃダメなの?って質問されたとします。
 
私は、エルサじゃないと嫌です。
姉妹なんだから、そこまでこだわらなくてもいいんじゃないの?
 
そんなハズありません。
私はキューバサルサに惚れました。
キューバサルサ土台となるダンスや音楽にも。
 
だから、他の女性なんて考えられません。
もとい、他の国なんて考えられません。
 
私はキューバがいいんです。

T/G:経歴

2001年4月 福岡県立福岡中央高等学校 入学

1年生
・落ちぶれ。
・野球はサボり気味。
 
2年生
・落ちぶれ。
・野球はサボり気味。
・秋から野球部で最上級生となり勉強にも身が入るようになる。
・秋、ニュージーランドに修学旅行。ファームステイ時に4人グループを組む事に。
・なぜか、余った人グループに配属。
 
3年生
・英国社では学年トップクラスの成績(理数系にエネルギーを奪われなかったため)。
・学校も休まず、小中時代を含め初の全日登校達成。
・寝坊による遅刻で皆勤賞は逃す。最後のツメが甘い。
 
高校3年間、野球部に所属
・性格的な問題か代打業に活路を見出す(自分としては不本意)。
・同級生から”打たれ弱い”と形容されるほどメンタルが弱いのに、代打や得点圏での打席など、みんなが緊張するような場面では、嬉しくなって微笑三太郎ばりに打席でニヤニヤしてしまう。
・自分のやるべき事(自分の役割)が明確な場面では、スイッチが入る性格なのかもしれない。
 
外野フライならいつでも打てたので、得点圏での犠牲フライは朝飯前だった。
・しかし、高校生レベルで、そんな"オジンくさい”まとまり方をしていたため、「”高校生らしい”がむしゃらさ」を求める監督に”オーイ!しっかり打てよ!(怒)”と厳しい苦言を呈される
 
・後輩が台頭し始め、それまで概ね優しかった監督からの当たりが厳しくなる。
イップス発症、打撃不振で、完全にレギュラー落ち。
・最後はキャチボールもままならず、ボールが考えられない方向に飛んで行った。
・当時は、イップスという言葉の存在も知らず、悩むばかりでどんどん悪化した。
・10年以上経った今でも、「お前はもう使わん」と監督に引導を渡される夢を見る。
 
・とはいえ、最終学年は規律があり、最も充実した1年だった。
・真剣に野球をやる人生最後の夏、大学受験などイベントごとがあったためだろう。
 

2004年3月 同 卒業

・第二ボタン・・・誰もクレなんて言いませんでした。

 

2004年4月 神戸市外国語大学イスパニア学科 入学

・地元の西南学院大学福岡大学にも合格していたが辞退(当時の実家からチャリで20分程度で通学可能)。
・一人暮らしがしたい、海外留学が当然の環境に身を置きたいとの希望を優先した。
 
・”神戸”がオシャレな街という、根拠なしのイメージに囚われていた。
・"明石海峡大橋が見える部屋”条件で部屋探し。若い不動産屋の失笑を誘発。
・しかし、通学に不便だったため1年と経たず引っ越し。
 
・入学早々、京都弁を操る魔性の女に手玉に取られる。
・京都四条大宮事件を機に魂を抜かれ、落ち込む。
・当時流行った、Kevin Littleの ”Turn me on”を聞いてもテンションが上がらないほどの失恋だった。


Turn Me On (video) original little X video edited to new alb

 
・先輩のツテで、居酒屋でバイト。
・レジでミスを犯すも先輩の顔という温情により、首の皮一枚繋がるダメダメ状態。
 

2006年9月 スペインに単位交換留学

・首都マドリードまでバスで40分のアルカラ・デ・エナーレスという街で生活。
・中身は語学留学で、アルカラにある語学学校で1日5時間、週5日で勉強。
・学校の勉強はしっかりやる一方、プライベートでは「日本人とばかりつるむ」という失態を犯す。
 

2007年10月 中南米での仕事に応募

・派遣される国は一応希望が出せる。
・なぜかチリにこだわってしまった(今振り返っても意味不明)。
・面接で派遣先の国に変にこだわった事が敗因だったと分析。
 

2008年3月 神戸市外国語大学イスパニア学科 卒業

・成績は真ん中よりちょっと上くらい。
スペイン語はすぐに仕事で使えるレベルにはなっていた。
・胸を張って、「スペイン語学科卒です。」と言えた事は誇り。
 

2008年3月 福岡県のNPOに就職

・卒業後すぐ中南米の大学院に行こう(アテなし)と考え、全く就活をせず。
・結局、中南米での大学院留学は資金面がクリアできず、先送りに。
・進路が決まらず、卒業まで残り1ヶ月。最低限、仕事はしようと思っているところで、下記NPOの求人を発見。
・面接、意気込みを語る理事会へのレターの追加提出の末、合格。
・今思えば、良くも悪くも、就活をしなかったため普通のキャリアパスはから外れた
 

2008年6月 NPO依願退職

・文明の利器とは、常に相性が悪かった。
・ワードやエクセルも満足に使いこなせず、先輩にSOSも出せず、長時間労働が続く。
・"ここに残って数年後、自分はどうなっているのか?"と考えて不安になる。試用期間の終了に合わせて退職する事を決意。
・この頃、関心があった有機農家への転身も考えていた。
 

2008年7月 通信会社料金センターでスペイン語通訳

・コールセンターで料金請求に関する問い合わせ対応(派遣社員)。
・人間、顔が見えないと面と向かっては言えないようなキツイ事を言ってくるものなのだと知った。
・もともと電話も人に説明する事も苦手だったため、精神的にシンドイ毎日だった。
・通訳という特殊技能という事で、福岡市では破格の時給だった(はず)。
 

2008年12月 前年と同じ中南米での仕事に再度応募

・やっぱり海外で仕事がしたいと思い、同じ仕事に再度応募。
・僅かながらも社会人経験がある事をアピールし、合格。
・翌年3月から、メキシコに2年間派遣される事が決定。
 
・同時期、青年海外協力隊でも中米エルサルバドルへの派遣で合格。
・職種は、環境教育。
 
環境保全分野での国際協力という意味でベストマッチではあった。
・しかし、派遣が1年後(精神的にシンドイ当時の仕事を1年続ける)という事がネックで断念。
 
・国際協力に携わりたいという希望は中学生の頃からあったが、青年海外協力隊を辞退。
・国際協力から離れる選択をした1回目。一つのターニングポイントだったと思う。
 

2009年2月 通信会社料金センター 退職

・予想に反し、直属の上司やお偉方は自分を評価してくれていた事に気づく。
・自分が去る事を惜しみつつ、応援してくれた。
・最後は、上司が集まってお別れ会を開催、みんなで高いネクタイを贈ってくれた。
 

2009年3月 メキシコ勤務

・メキシコ政府との調整業務。
スペイン語は格段に上達した。
・家に帰ってからも、テレビドラマを見て、知らない単語や言い回しをいちいちノートにとっていたくらい取り憑かれていた。
 

2011年3月 メキシコ勤務、任期満了

・日本に帰国。
青年海外協力隊の書類選考には合格したが、2度目の辞退。
・なぜか、オーストラリアの大学院への留学を決めていた。
・7月入学を目指し、準備。諸事情で翌年2月に延期。
 

2011年8月 NPOで農業研修

・花卉農家で実地研修。
・農家の大変さと保守性を実感。
・農作業を黙々とするのは性に合っていないと判断できた。
 

2012年2月 オーストラリア留学

メルボルンのモナッシュ大学に留学。専攻は、"サステイナビリティ(Master of Sustainability)"。
環境保全や開発学を専攻すべく、オーストラリアの複数の大学院に出願。
・モナッシュ大学、グリフィス大学、マッコリー大学、ジェームズクック大学、タスマニア大学、から入学許可を得る。
・しかし、1学期目でドロップアウト。逃げるようにオーストラリアを去る。
・約300万円の投資で気づいた。勉強する場所も自分にとっては大事だったのだと。
 

2012年8月 メキシコへの逃亡と再留学

・チャピンゴ大学(メキシコの農業大学)で、"地方農村開発学”という過程に入学。
・書類提出の締め切りは過ぎていたものの、修士課程長が自分の研究計画に関心を示し、筆記試験、面接と進み合格。
・フィールドワークで普通の日本人が行かない非観光地に分け入る。
・それまでどこか見下していた、メキシコ人に助けられ、変な上から目線を改めた
・予定より少し時間はかかったが、2年半で無事卒業。
・論理的な文章を書く力、スペイン語の能力は人生MAXの状態に。
 

2014年7月 就職活動

中南米での政治・経済調査の仕事
中南米での国際協力の仕事 x 2
・メキシコ進出の日系自動車部品メーカーの仕事
 
・大学院後の社会復帰を視野に一時帰国して就職活動。
・迷った末、南米での政治調査の仕事を選択。
 
・しかし、(1) 2009年、青年海外協力隊エルサルバドル派遣; (2) 2011年の書類選考合格後に辞退したのに続いて、通算3度目となる国際協力の道を外れる選択。
・国際協力のコンサルタント会社は自分を評価してくれていたが、"1年のうち10ヶ月現場”という条件がネックで断念(すでに妻子がいた)。
 

2014年12月 ペルー勤務

・ペルーの政治を日々追いかけ、レポートを書く。
・ときどき、お偉いさんの通訳。
日系人に間違われる。
 
・金がなく、あまり旅行は行けず。
ナスカの地上絵は、以外にも見事だった。
・しかし、最初の旋回飛行で内臓がシェイク。残りのフライトはグロッキー。
(子供たちは大喜び)
・ペルーの海岸線の砂漠は、宇宙に来たような感覚になる。
 

2016年8月 就職活動

・同年4月から就職活動を開始。
・ちょうど仕事が忙しい時期だったが、夜中まで履歴書や職務経歴書を修正していた。
スカイプ等で転職エージェントと面接し、帰国前に4社との面接をセット。
・8月に3週間一時帰国。
 
・一番興味があった地元の変わり種メーカーから急にフラれる。相思相愛に見えていたのになぜ?という感じ。
・将来の役員、南米統括候補としてのオファーを断った。転職エージェントの方も非常に良くしてくれたので申し訳ない。人事の役員の方もすごく俺を評価してくれていた。街中でこの会社の看板を見る度、「オレ、判断誤ったかもな」と感じてしまう。
・結局、条件は最も悪いが、チャレンジ精神に溢れる気風の会社に決めた。
 

2017年6月 退職

・いろいろな事が重なり、退職。
・家から出るのも困難に。人とも目を合わせられなくなる。
・3日後のクレジットカードの引き落としをどう切り抜けるか思案中。
 

2017年7月 進路に悩む ←(今、ココ)

・メキシコに進出している自動車メーカーからオファーを受ける。
・この仕事で本当にいいのかと思い悩む。

TG:略歴

T/G:略歴

 
1985年生まれ、間もなく32歳。
A型、おとめ座
 
佐賀県唐津市生まれ。
福岡県福岡市育ち。
 
元なんちゃって関西人4年。
ネイティブにも"関西弁が板に付いて来た"とお墨付きをもらえるレベルまで成長。
 

2004年3月 福岡県福岡市内の”自称”進学校を卒業

8月以降の追い込みで、同年4月、担任に苦笑されたほど絶望的だった志望校に合格。
 

2004年4月 兵庫県神戸市にある外国語大学のスペイン語学科に入学

中学時代からの留学に対する憧れを叶えられると興奮。
今思えば、留学が当然という環境に身を置いた事で憧れが現実になったと思う。
 

2006年2〜3月 カリフォルニア(アメリカ)旅

・海外では、「行った先で何をするか」が明確でないと時間だけが過ぎてしまう。
・海外では、「自分が何をしたいか」を明確にしないといけない。
・海外では、周りが気を遣って「何がしたいの?」なんて助け舟出してくれない。
・人生には自発性が必要なのだ。
 
以上を痛感した。
 

2006年4月 コスタリカ(中米)一人旅

生まれて初めての一人旅。
 
「一人でも何とかなる」という自信をつけた。
これが翌年のアルゼンチン〜メキシコ旅の実行を決定づけた。
 

2006年9〜12月 ヨーロッパのスペイン語圏に単位交換留学

人生初の海外長期滞在。
 
勉強はちゃんとしたが、現地人との付き合いは極めて限定的。
悪い事ばかり目に入って、変に壁を作ってしまった。
 
結果、ほぼ毎日、日本人とつるむ生活。
モッタイない事をしたと後悔。
 
近隣諸国にLCCで旅。
イタリア、フランス、ドイツ、ポルトガル
ボルトガルには、もう一度行きたい。
 

2007年1〜5月 アルゼンチン〜メキシコ旅

・金欠で食費を抑えざるを得なかった結果、高校球児引退以来初めて”背脂"が消えるほどの減量に成功(帰国後数ヶ月でリバウンド)。
 
・若者のバックパッカーといえど、ヒゲは綺麗に整えるとか最低限の清潔感があると、現地人の反応がいい事を再確認(前年コスタリカ旅の反省)。
 
・高校以来やっていた、”眉毛を細く整える”事を辞めた。
 
行った国
・アルゼンチン
・ブラジル
・チリ
・ペルー
・コロンビア
・メキシコ
 

2008年3月 タイ&カンボジア

大学の卒業旅行兼。
タイのみ高校の悪友3人と同行。
カンボジアアンコールワットでは、1日45ドルのタクシー代をケチり、自転車で炎天下を移動したため熱射病でダウン。
 

2009〜2011年 メキシコ旅

ベタな観光地をリピート。
 

2012〜2014年 メキシコ旅

日本人が行かないような非観光地の辺境を巡る。
メキシコ人に助けられ、メキシコの寛容さに気づいた旅。
 

2014〜2016年 ペルー旅

リマ近郊。
 

2017年〜 スランプ/ピンチ ←(今、ココ)

気がつけば、20代のほとんどをラテンの国々で過ごした私。
 
31歳、満を辞して?日本社会復帰も肌が合わず。
毎日、悶々とする日々。
 
 
会社の上司には、
 
「テメエ、何人だ?!ココは日本なんだよ!」
 
といった叱責を受ける事もしばしば。
 
 
生粋の日本人であるはずの、"私"とは一体何者なのか?
 
私のアイデンティティは何なのか?
 
私の居場所はどこなのか?
 
 
 
薄々、日本には居場所が無いと気づいている。
日本を飛び出す日が近いかもしれない。

「俺の人生コレでいいのか?」悩める32歳に忠告:会社辞める前にこのマンガ読んどいたがイイぞ。

悩める32歳男性の心の中

俺の人生コレでいいのか?
 
このまま何となく会社に残るのか?
 
平日は満員電車で死人のような顔をして通勤。
そして、朝から晩まで会社で仕事。
 
休日は家族サービス。
まとまった自分の時間はない。
そして、積み残した仕事の事が頭から離れない。
 
 
俺はそんな状態でもがいている。
でも、世の中には自分の特技とかやりたい事を仕事にして生きている人たちがいる。
 
 
「俺も奴らみたいになりたい」
 
 
そう思った。
 
 
 
嫁にボソッと言ってみた。
親にもボソッと言ってみた。
 
 
俺「ブロガーになりたい」
 
 
妻「アンタ、父親でしょ!」
 「子供はどうするの?」
 「生活はどうするの?」
 
 
父「独立?好きな事して生きられるほど、世の中そんなに甘くねえ!」
 「独立して一体、何を売って稼ぐんだ?」
 
 
母「安定が一番。会社で正社員を続けて、好きな事は趣味でやったらいい。」
 「そんな夢みたいな事、忘れて目を覚ましなさい」
 
 
娘「パパとママ、何で喧嘩してるの?」
 「じじ、ばば、パパとママが喧嘩してる。」
 
息子:ウルトラマンに夢中。
 
 
かなりキツイの反応が返ってきた。
 
 
俺の周りには、会社を辞めて、自分でビジネスをやっている人間がいない。
 
 

それでも32歳は・・・

それでも俺は、今の生き方を続けるのが嫌だった。
 
死人んみたいな顔をして通勤して、ワクワクしない事をしながら生きたくない。
 
あと30年我慢して、60過ぎのジジイになってからやりたい事をやるなんて嫌だ。
 
20代の頃にもっとチャレンジしとけばよかった。
 
でも、今からでも遅くはない。
若い心とカラダで好きな事をしたいだ!!!
 
 
同じ事をやるにしても、30前半でやるのと60過ぎてやるんじゃ、全然チゲーだろ。
そもそも、60まで生きてるかさえ分からない。
 
 
NHK「ひとりでできるもん」のまいちゃん、小林麻央、西武の森慎二、・・・
 
 
人間、いつ死ぬか分からないんだぜ。
俺、今死ぬとしたら「我が人生に一片の悔い無し!」って、ゼッテー言えねえ。
 
今死ぬとしたら、やりたかったけどやらなかった事の走馬灯が流れるぜ。
間違いない。
 

32歳への忠告

そんな悩みを抱える32歳の君に、人生の先輩から一つ言わせてくれ。
 
 
「君の気持ちは分かった。」
「でも、会社を辞めるのは、このマンガを読んでからにしろ。」
 
 
そのマンガは「俺はまだ本気出してないだけ」っていうタイトルだ。
 
 
作者は、青野春秋(あおの・しゅんじゅう)ちゅう人だ。
 
騙されたと思っていい。
全部で5巻だ。
 
小難しい話じゃないし、しかもちょいちょい笑えるから3時間もありゃで読める。
自己啓発系のセミナーに一回行く代わりにこのマンガを読め。
 
したら、「何がしたいかハッキリしていないうちに、とりあえず会社だけ辞めるとこうなる」っていうリスクを疑似体験できるから。
 
 
お前は今、自分で金を稼げないというところからスタートしようとしている。
思い切りの良さも大事だ。
でも、冷静な状況判断も大事だ。
 
お前の熱い気持ちに水を差して悪い。
読むかどうかはお前の自由だ。
でも、人生の先輩として忠告だけしておく。
 
 
マンガの主な登場人物はコイツらだ
 
主人公、大黒シズオ
42歳で15年勤めた会社を何となく退職。
ある日突然、マンガ家を目指すことを宣言。
出版社に持ち込むが、ボツが続く毎日。
生活のため20代の若者とマック的な店でバイト。
 
シズオの父、志郎
シズオがマンガ家宣言した時、嘆きの涙をボロボロ流した。
シズオを心変わりさせるべく、常に説教口調で説き伏せている。
シズオと鈴子と同居。
 
シズオの娘、鈴子
困惑しながらも、シズオを見守っている。
家事を一手に引き受けている。
 
シズオの幼馴染、宮田修
小学校からシズオと友達。
途中で脱サラして、パン屋を開く。
4年前に離婚。元妻との間に息子が一人いる。
 
 
シズオの元バイト仲間、市野沢秀一
シズオと数時間だけバイト仲間になった。
過去にイロイロあったせいか、無口で無表情。
どんなバイトも続かなかったが、宮田のパン屋で働き始める。
 
 
主な登場人物はコイツらだ。
ぶっちゃけ、こんなリストなくても読めるがな。
 
 

せめて、このシーンくらいは読んでおけ

大丈夫。
1巻目ですぐ出てくるシーンだ。
これで、「くだらねえ」と思うなら、それ以上読まなくていい。
 
 
シズオは、15年勤めた会社を急に辞めた。
「なんとなく」会社を辞めた。
自分が何をしたいのかは、まだ分からなかった。
 
 
家でダラダラしているだけのシズオを見て、親父の志郎が説教する。
 
・後悔したくない?
・自分の人生を探す?
・そんなこと言ってる年じゃないだろ?
・子供はどうするんだ?
 
 
親父と同居してないから大丈夫?
お前の嫁はんが親父みたいな事言ってくるぜ。
 

俺の実体験

これを書いてる俺も、これを読んでるお前くらい歳の頃、家族に同じ事を言われた。
シズオみたいに、急に会社辞めちまったから。
 
 
急に会社辞めて、「後悔しない人生にしたい」と言う夫を見て、怒り狂う妻。
怖かった。
そして、申し訳なかった。
 
 
息子を見て、深くため息をついて肩を落した俺の親父。
高校卒業して同じ会社にほぼ40年勤め上げた親父には本当に助けられた。
大学まで行かせてもらった。
大学に入った頃には、出不精の親父を海外旅行に連れていってやろうと思ってたのに。
そんな願いも遠のいた。
 
 
息子を見て、悲しんだ母。
ごめんな、母ちゃん。
でも、気が狂ったとかじゃない。
むしろ、会社に残る方が気が狂いそうだったんだ。
 
 
シズオは、マンガ家を目指すけど、未経験だから全然書けない。
俺は俺で、ブログを書いて(情報発信をして)自分でビジネスをしようとしたけど、全然ブログを書けなかった。
 
 
まあ、当然の結果だった。
 
自分を表現する事やITが苦手。
大学卒業以来、自分がやりたい事を真剣に探していなかった。
(いや、小学生くらいから空気ばかり読んでいた。)
 
結婚して子供ができてからは、生活のために会社に行く生活。
魂や夢なんてなかった。
 
人間、やっていなかった事を急にできるようになんてならないんだ。
 
 

俺からの忠告

そんな実体験も踏まえて聞いて欲しい。
 
・どうしよもうもない不安
・自分への苛立ち
・自暴自棄な行動
・ボーッとしてしまう
・子供を可愛いと思う気持ち
・家族に申し訳ない気持ち
・でも、自分の人生を諦められない気持ち
 
 
お前は結果が出るまでの間、こんな感情を常に腹の中に抱える事になる。
今お前が会社の給料以外稼げてねえなら、間違いなくこうなるから。
覚悟しとけ。
 
 
そして、そんな状態で、
 
・まだテーマも決まってないブログを書けるか?
・金になるか分からないアフィリエイト記事をたくさん書けるか?
・バイト以下の時給で、5,000字の文章書けるか?
・10コ下のガキや年下の上司の下で、生活費のためにバイトできるか?
・お前を理解できない妻にキツく当たられても耐えられるか?
 
 
下手にプライドだけ高いお前にこの難局を乗り切る覚悟があるのか?
争い事やカオスが苦手なお前がこの苦境に耐えられるのか?
 
 
「会社に行くのが嫌で仕方がない」とかじゃないなら。
「背水の陣を引かないとエンジンがかからない」とかじゃないなら。
 
会社に行きながら、生活に必要なだけ稼げるようになってから独立でもいいと思う。
金がないと、悪循環に陥るから。
まともに考えなれなくなるから。
 
 
「俺はまだ本気出してないだけ」のシズオの行動を見て、よ〜く考えろ。
会社を辞めるのは、それからでも遅くない。
 
 
命令口調で悪い。
でも、昔の俺を見ているみたいで、つい口を挟んじまった。
 
 
許してくれ。
 
 
そして・・・
 
 
「自分の人生を意義あるものにしたい」
 
そういうお前に幸せあれ。

"Al final de la vida" Havana D'Primera

私はサルサが好きです。
 
特にキューバサルサが。
 
 
でも、周りに詳しい人がいないと、どこから聴き始めたらいいのか分からないと思います。
私もそうでした。
 
 
そこで、このブログ内で、個人的なオススメの曲を紹介します。
 
 
今日の1曲はコレ(↓)。
 
 
曲タイトル: "Al final de la vida”(アル・フィナル・デ・ラ・ビーダ)
バンド:Havana D’Primeraハバナ・デ・プリメーラキューバ
 
 
最新のアレンジ・バージョン(↑)
 
最初にリリースされたバージョン(↑)
 
 
この曲の最大の魅力。
 
それは人生訓的な歌詞。
 
 
この歌詞を聞いて、共感する部分もあったり、私はこう思うな〜と感じる部分もあったり。
 
歌詞を書いた人がそういう感じなんでしょう、きっと。
 
 
今でも、悶々としたときにはこの曲の歌詞と語り合います。
 
 
これから、キューバを中心にラテンポップを取り上げます。
お時間があるときにのぞいてみてください!

10年前、私は旅人だった:アルゼンチン、バルデス半島

自分、大学生だった10年前、一人でバックパッカー旅をしていました。
南米のアルゼンチンから中米のメキシコまで陸路で上がって行きました。
 
2007年の1月から5月までです。
留学先のスペインから直接アルゼンチンに飛びました。
そこからメキシコまで北上しました。
 
最後はメキシコシティから、ロサンゼルスとソウルを経由して、実家のある福岡に帰りました。
 
今日も、その時の振り返りを少し。
今回は、アルゼンチンのバルデス半島に行った時の話です。

感動のパタゴニアバルデス半島へ

イグアスの滝からパラグアイを通って、ブエノスアイレスに帰った私は思いました。
 
"今は一つの場所に残るより、いろんな場所を知りたいという気持ちの方が強い"
 
すぐに私は、安宿(集合住宅)のおばちゃんに言いました。
 
また旅して来ます。
もう戻らないかもしれません。
1月25日までに戻らなければ、戻らないと思って下さい。
 
入居時に払った1ヶ月分の部屋代120ドル。
そのうち60ドル分くらいは捨てることになった。
それでも、自分は行ったことがない場所を知りたかった。
 
バックパックを抱えて、ブエノスアイレスの繁華街を5km歩いた。
イグアスに行った時と同じバスターミナルまで行った。
 
バスターミナルの裏には、スラムっぽい街並みが広がっている。
そこで子供たちがサッカーをしている。
 
私は、パタゴニアバルデス半島に向けて出発した。
私が向かったのは、プエルト・マドリン(Puerto Madryn)という、バルデス半島への中継地点の街。
 
グーグルマップで調べたら、ブエノスアイレスから 1,300km 先。
バスだと16時間くらいかかる。
 
アルゼンチン、デカイ。
 

プエルト・マドリンに着いた。

翌朝、プエルト・マドリンに到着。
宿は意外にあっさり見つかった。
芝生が綺麗な、小ぎれいな宿。
 
フロントで翌日のバルデス半島ツアーに申し込む。
ツアー代金は、90ペソ=30ドル(当時のレート)。
バルデス半島国立公園の動物を見て回る1日ツアー。
 
その日の午後は時間が余った。
なので、ビーチを歩くことに。
 
しかし、中南米お決まりの”チノ口撃”に遭う。
せっかくのビーチでの時間が台無しに。
 
まだ、あの頃は”チノ口撃"への耐性がなかったな〜。
懐かしいです。
 

バルデス半島ツアー当日。

さて翌日。
待ちに待ったバルデス半島ツアー。
 
・ペンギン
・アザラシ(トド?アシカ?)
・レミュー(ダチョウみたいな飛べない鳥)
・アルマジロ
・シャチ(運が良ければ)
・クジラ(オプショナル)
 
このツアーでは、こういう動物が見られる。
 
私はツアーに一緒に参加した、ブエノスアイレスで働くの男二人組と仲良くなった。
彼らは半島内でキャンプをするらしい。
 

オプショナルツアーでケチったことを今でも後悔。

クジラはシュノーケリングで見るツアーだった。
でも、ここで私はケチってしまった
 
私はジンベイザメを水中で見たことがある。
水の中で見る水生動物の美しさを知っている
 
だから、スゴく後悔している
シュノーケルをしたオランダ人の兄ちゃんは、ホクホク顔で帰って来た。
 
 
“お前もやればよかったのに!”
“水中で見るクジラはすごかったぞ!”
 
 
無慈悲(素直)な感動の言葉。
 
はいはい。
私もそう思います。
 
そして、シャチも見られなかった。
運が良ければ、アザラシを狩るところを見られるのだが、この日は運に恵まれず。
 

バルデス半島にはもう1度行きたい。

でも、風景はキレイです。
日本にはない、乾燥した荒野という感じ。
 
ペンギンもアルマジロも至近距離で見られます。
駐車スペースを普通に歩いています。
 
バルデス半島にはもう1度行きたいです。
行けたら、ぜひやりたいこと。
 
・シャチが見られるまで張り付きたい。
・クジラと一緒に泳ぎたい。