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ラテン音楽、野球、旅、ライフスタイルについて書きます

10年前、私は旅人だった:ブエノスアイレス

自分、大学生だった10年前、一人でバックパッカー旅をしていました。
南米のアルゼンチンから中米のメキシコまで陸路で上がって行きました。
 
2007年の1月から5月までです。
留学先のスペインから直接アルゼンチンに飛びました。
 
最後はメキシコシティから、ロサンゼルスと仁川(韓国)を経由して、実家のある福岡に帰りました。
 
今日は、その時の振り返りを少し。
 

いざ、アルゼンチンへ。

2007年1月3日
 
大学の交換留学先だったスペインのアルカラ・デ・エナーレスを出発しました。
貧乏学生だったので、ロカールバスを乗り継いでマドリード空港に行きます。
 
アルカラを出るときは、学校の日本人仲間が見送りに来てくれました。
みんな心配してくれました。
 
 

どうしようもない不安に襲われる。

みんなの治安大丈夫なの?という言葉に対して、
 
"オレは大丈夫”
"危なくねえよ”
“危ないって言っても現地人は住んでるじゃねえか”
“日本に居たって、犯罪に巻き込まれる可能性はある"
 
 
とか強気な事を言いつつも、アルゼンチンは知らない場所。
不安でイッパイでした。
 
 
スペインでアルゼンチンに関するニュース記事を読んでいました。
 
その内容は、
 
"首都ブエノスアイレスの公園で、男が群衆に向かって無差別に発砲した”
 
と言う記事でした。
 
 
"オレ、本当にこんなところに行くんだろうか・・・"
 
そう思いました。
 
 
悪いことは知らぬが仏です。
楽しそう、やりたいと思えることだけ事前に知りたいものです。
 
 
スペインを発つ前、スペイン人の友達を紹介されていて、会うことになっていました。
でも、急に今後の旅の不安に襲われ、ドタキャンしてしまいました。
 
 
あれから10年。
海外生活の経験が増え、未知の場所に行く事に不安はなくなりました。
でも、ハタチそこそこだった、当時の自分にとっては不安でしかなかった。
 
 

アルゼンチンに着いた。

スペインを夜の10時くらいに出て、アルゼンチンに早朝に着く便でした。
 
12時間後、ついにブエノスアイレスに到着(してしまった)。
金がなかったので、機内食のパンと紙袋の塩をウエストバックに詰め込みました。
 
自分は、旅に行くと食事より観光です。
食事か新しい場所に行く事のどちらかを選ぶなら、迷わず後者を選びます。
それまでは気づきませんでしたが、この旅を通じて気づきました。
 

空港から市内、そしてホテルへ。

金がないので、空港からもちろんローカル路線バスです。
ブエノスアイレス市内まで2時間くらいかかった気がします。
中心地に入ったところで、下車。
 
バスを降りるときは車内の上にあるロープを引っ張ればよかったみたいです。
でも、そんなの知りません。
“バホ!(降りる!)”って、叫んでました。
周りの乗客から、"なんだこの東洋人”って顔をされました。
 
街中を歩いて、ユースホステルにチェックイン。
人生初ビリヤード。
 
最初のショットは、力みすぎて、前にあったボールを超えてその次のボールをインさせるというミラクルショット。笑
一緒にプレーしたアメリカ人は、"what a f***"って叫びました。
 
あと宿泊客の有志で集まって、フットサルをしに行きました。
ちょっと休憩しようと思って、キーパーをしました。
したら試合終了までずっとキーパーでした。
 
その日は多国籍軍団の中。
いろんな国の人間が集まってました。
日本みたいに「そろそろキーパー変わろうか?」とかないです。
安易にキーパーしない方がいいです。
あとで強引にでもキーパーを変わらせる自信がないなら。
 
 

アルゼンチンのスペイン語を学びたい

アルゼンチンのスペイン語はイタリア語みたいです。
イントネーションに抑揚があります。
 
生で初めて聞いたときは、本当にイタリア語みたいだったので笑ってしまいました。
このアクセント身に付けたいなと思いました。
 
そこで、ブエノスアイレスで語学学校を探しました。
人数が少ないところが良かったです。
 
ブエノスアイレス大学付属の語学学校にも行きました。
でも、クラスの人数が多すぎるのでやめました。
 
結局、繁華街にあった私立の語学学校に行きました。
早速、レベルチェックテストを受けました。
 
同世代くらいの若い姉ちゃんに驚かれます。
 
 
姉:どこでこんなに勉強したの?
私:スペインで。
姉:あなたは最上級レベルよ。でも、今生徒がいないからプライベートレッスンになっちゃう。授業料が高くなるから、一つ下のレベルでグループレッスンにするのはどう?」
 
 
私は快諾しました。
当時の為替レートは、1ドル=3ペソでした。
120ドルくらい払ったと思います。
でも、期間がどのくらいだったかは覚えてません。
 
ただ、先生との相性がイマイチでした。
生徒の話を全然聞かない。
自分の話ばかりする感じ。
 
先生との相性は大事です。
合わないなら語学学校を変えましょう。
 
現地で決められるのなら、実際に1週間とか通ってみて決めるのがオススメです。
大事な時間とお金ですから、納得できるように投資しましょう。
 
 

長期滞在用の宿探し

ブエノスアイレスだと、宿、スペイン語とタンゴがセットになった宿もありました。
今の頭であの頃に戻れるならこのセットを選んだと思います。
あの頃の自分にはそれを強くススメます。
 
でも、私はネクラなところがあるので、スペイン語だけにしました。
そして、宿は別に見つけました。
 
見つけた宿は、サン・テルモ(San Telmo)という地区にある集合住宅でした。
1ヶ月で120ドル。
シャワー、トイレ付きの個室。
 
最初、聞き間違えかと思って何度も聞き返しました。
 
すると管理人のおばちゃんに、
 
”私をからかってるの?”
 
とプチ切れされました。
 
 
それから朝は語学学校、昼からは勉強と街歩きをして過ごしました。
 

貧乏旅行の食生活

食事は1日1回。
一日に一度、20分くらい歩いて、3ドルのピザを食べに行ってました。
トッピングは、チーズとトマトとバジルだけ。
 
空腹は、バナナと3リットルの炭酸飲料でゴマかします。
2週間くらいそんな生活をしました。
 

心境の変化、そして旅へ。

しかし、そんな生活は2週間で終わります。
食事制限は全然問題なかったです。
 
でも、南米まで来て、勉強と街歩きだけという状況に嫌気がさしました。
 
映画モーターサイクル・ダイアリーズチェ・ゲバラのように、アルゼンチンからメキシコまで行ってやろう。
ふと、そう思いました。
 
私の場合、バイクじゃなくて、バスでしたが。
私と同世代の人は、モーターサイクル・ダイアリーズを結構みているんじゃないでしょうか?
 
旅の道中で、日本人のバイク旅人いっぱい見かけました。
絶対、映画の影響を受けた人たちです。
 

ブエノスアイレス安宿暮らしの驚き

1. 招かれざる客Gとの添い寝
1月、アルゼンチンは真夏です。
気温は35度近くまで上がっていました。
 
でも、部屋に冷房はありません。
夜は窓を開けないと寝られません。
 
しかし、大問題が。
安宿で小型ゴキブリが大繁殖していたんです。
保健所?が対策に回るくらいのレベルでした。
 
そのゴキブリさん。
夜中にベッドに這い上がったり、天井や窓から落ちて来たりするんです。
 
暗闇の中で視界が悪い中では、触覚や聴覚が冴えます。
冴えなくていいのに。
 
人肌恋しいゴキブリさんたちが、人が金を払っているベッドにただ乗りして来ます。
触覚が肌に触れるのがすごく鮮明に感じられます。
そして、彼らの軽やかな足音もよく聞こえます。
 
普段、私は殺生をしません。
家の中のクモとか小さな昆虫も外に逃がします。
 
しかし、この時ばかりは、自分の中の修羅が目覚めてしまいました。
 
10分後、気がついたらゴキブリの亡骸が山ほど。
右手は、旅の供のウォーキングサンダル握りしめていました。
 
2. 不信感に基づく近所づきあい
安宿にはたくさんの家族が暮らしていました。
今思うと、近隣諸国から移住して来た低所得層の人たちだったと思います。
 
私は旅費を切り詰めるため、地元のデパートで鍋を買い自炊を始めました。
人生史上最悪にマズいメシを食べたあと、使った鍋を天日干ししていました。
 
すると、誰かがドアをノックします。
開けると子供でした。
早口でまくしたてます。
 
子供が言っていることは聞き取りづらいです。
でも、一生懸命何か言っています。
鍋を指差しています。
 
よく話を聞くと、
 
「あんなところに物を置いてたら、誰かに盗まれるよ」
 
防犯意識の低い東洋人に忠告してくれたのでした。
 
 
全部で10世帯くらいの集合住宅、しかもお互い顔見知り同士で盗みがあるのか?
自分にはよく分からない世界でした。
 
誰も信頼できないのか?
それは悲しい。
 
一緒に協力はできなくてもいい。
でも、最低限、近所から物を取るのはヤメようぜ。
 
そう思いました。
 
3. 屋上の物干しスペースには入場時間があった
集合住宅の屋上は洗濯用の手洗い場と物干しスペースがありました。
ある日、手洗いした服を取り込みに行きました。
すると、入り口に鉄格子があって、中に入れない。
 
手書きで何やら書いてある。
 
"使える時間:06:00〜18:00"
 
時計を見ると18時05分。
ちょっと時間を過ぎている。
 
 
そもそもなんで共用スペースに営業時間があるのか?
それは、共用スペースに住んでる人がいるからでした。
 
屋上の住人に懇願しました。
お願いだから取り込ませてくれと。
 
でも、ガン無視。
私が東洋人だからか?
 
強く主張も交渉もできず、翌朝、取り込みに行く羽目になりました。