ITオンチ、無職ブロガーTG

ラテン音楽、野球、旅、ライフスタイルについて書きます

T/G:経歴

2001年4月 福岡県立福岡中央高等学校 入学

1年生
・落ちぶれ。
・野球はサボり気味。
 
2年生
・落ちぶれ。
・野球はサボり気味。
・秋から野球部で最上級生となり勉強にも身が入るようになる。
・秋、ニュージーランドに修学旅行。ファームステイ時に4人グループを組む事に。
・なぜか、余った人グループに配属。
 
3年生
・英国社では学年トップクラスの成績(理数系にエネルギーを奪われなかったため)。
・学校も休まず、小中時代を含め初の全日登校達成。
・寝坊による遅刻で皆勤賞は逃す。最後のツメが甘い。
 
高校3年間、野球部に所属
・性格的な問題か代打業に活路を見出す(自分としては不本意)。
・同級生から”打たれ弱い”と形容されるほどメンタルが弱いのに、代打や得点圏での打席など、みんなが緊張するような場面では、嬉しくなって微笑三太郎ばりに打席でニヤニヤしてしまう。
・自分のやるべき事(自分の役割)が明確な場面では、スイッチが入る性格なのかもしれない。
 
外野フライならいつでも打てたので、得点圏での犠牲フライは朝飯前だった。
・しかし、高校生レベルで、そんな"オジンくさい”まとまり方をしていたため、「”高校生らしい”がむしゃらさ」を求める監督に”オーイ!しっかり打てよ!(怒)”と厳しい苦言を呈される
 
・後輩が台頭し始め、それまで概ね優しかった監督からの当たりが厳しくなる。
イップス発症、打撃不振で、完全にレギュラー落ち。
・最後はキャチボールもままならず、ボールが考えられない方向に飛んで行った。
・当時は、イップスという言葉の存在も知らず、悩むばかりでどんどん悪化した。
・10年以上経った今でも、「お前はもう使わん」と監督に引導を渡される夢を見る。
 
・とはいえ、最終学年は規律があり、最も充実した1年だった。
・真剣に野球をやる人生最後の夏、大学受験などイベントごとがあったためだろう。
 

2004年3月 同 卒業

・第二ボタン・・・誰もクレなんて言いませんでした。

 

2004年4月 神戸市外国語大学イスパニア学科 入学

・地元の西南学院大学福岡大学にも合格していたが辞退(当時の実家からチャリで20分程度で通学可能)。
・一人暮らしがしたい、海外留学が当然の環境に身を置きたいとの希望を優先した。
 
・”神戸”がオシャレな街という、根拠なしのイメージに囚われていた。
・"明石海峡大橋が見える部屋”条件で部屋探し。若い不動産屋の失笑を誘発。
・しかし、通学に不便だったため1年と経たず引っ越し。
 
・入学早々、京都弁を操る魔性の女に手玉に取られる。
・京都四条大宮事件を機に魂を抜かれ、落ち込む。
・当時流行った、Kevin Littleの ”Turn me on”を聞いてもテンションが上がらないほどの失恋だった。


Turn Me On (video) original little X video edited to new alb

 
・先輩のツテで、居酒屋でバイト。
・レジでミスを犯すも先輩の顔という温情により、首の皮一枚繋がるダメダメ状態。
 

2006年9月 スペインに単位交換留学

・首都マドリードまでバスで40分のアルカラ・デ・エナーレスという街で生活。
・中身は語学留学で、アルカラにある語学学校で1日5時間、週5日で勉強。
・学校の勉強はしっかりやる一方、プライベートでは「日本人とばかりつるむ」という失態を犯す。
 

2007年10月 中南米での仕事に応募

・派遣される国は一応希望が出せる。
・なぜかチリにこだわってしまった(今振り返っても意味不明)。
・面接で派遣先の国に変にこだわった事が敗因だったと分析。
 

2008年3月 神戸市外国語大学イスパニア学科 卒業

・成績は真ん中よりちょっと上くらい。
スペイン語はすぐに仕事で使えるレベルにはなっていた。
・胸を張って、「スペイン語学科卒です。」と言えた事は誇り。
 

2008年3月 福岡県のNPOに就職

・卒業後すぐ中南米の大学院に行こう(アテなし)と考え、全く就活をせず。
・結局、中南米での大学院留学は資金面がクリアできず、先送りに。
・進路が決まらず、卒業まで残り1ヶ月。最低限、仕事はしようと思っているところで、下記NPOの求人を発見。
・面接、意気込みを語る理事会へのレターの追加提出の末、合格。
・今思えば、良くも悪くも、就活をしなかったため普通のキャリアパスはから外れた
 

2008年6月 NPO依願退職

・文明の利器とは、常に相性が悪かった。
・ワードやエクセルも満足に使いこなせず、先輩にSOSも出せず、長時間労働が続く。
・"ここに残って数年後、自分はどうなっているのか?"と考えて不安になる。試用期間の終了に合わせて退職する事を決意。
・この頃、関心があった有機農家への転身も考えていた。
 

2008年7月 通信会社料金センターでスペイン語通訳

・コールセンターで料金請求に関する問い合わせ対応(派遣社員)。
・人間、顔が見えないと面と向かっては言えないようなキツイ事を言ってくるものなのだと知った。
・もともと電話も人に説明する事も苦手だったため、精神的にシンドイ毎日だった。
・通訳という特殊技能という事で、福岡市では破格の時給だった(はず)。
 

2008年12月 前年と同じ中南米での仕事に再度応募

・やっぱり海外で仕事がしたいと思い、同じ仕事に再度応募。
・僅かながらも社会人経験がある事をアピールし、合格。
・翌年3月から、メキシコに2年間派遣される事が決定。
 
・同時期、青年海外協力隊でも中米エルサルバドルへの派遣で合格。
・職種は、環境教育。
 
環境保全分野での国際協力という意味でベストマッチではあった。
・しかし、派遣が1年後(精神的にシンドイ当時の仕事を1年続ける)という事がネックで断念。
 
・国際協力に携わりたいという希望は中学生の頃からあったが、青年海外協力隊を辞退。
・国際協力から離れる選択をした1回目。一つのターニングポイントだったと思う。
 

2009年2月 通信会社料金センター 退職

・予想に反し、直属の上司やお偉方は自分を評価してくれていた事に気づく。
・自分が去る事を惜しみつつ、応援してくれた。
・最後は、上司が集まってお別れ会を開催、みんなで高いネクタイを贈ってくれた。
 

2009年3月 メキシコ勤務

・メキシコ政府との調整業務。
スペイン語は格段に上達した。
・家に帰ってからも、テレビドラマを見て、知らない単語や言い回しをいちいちノートにとっていたくらい取り憑かれていた。
 

2011年3月 メキシコ勤務、任期満了

・日本に帰国。
青年海外協力隊の書類選考には合格したが、2度目の辞退。
・なぜか、オーストラリアの大学院への留学を決めていた。
・7月入学を目指し、準備。諸事情で翌年2月に延期。
 

2011年8月 NPOで農業研修

・花卉農家で実地研修。
・農家の大変さと保守性を実感。
・農作業を黙々とするのは性に合っていないと判断できた。
 

2012年2月 オーストラリア留学

メルボルンのモナッシュ大学に留学。専攻は、"サステイナビリティ(Master of Sustainability)"。
環境保全や開発学を専攻すべく、オーストラリアの複数の大学院に出願。
・モナッシュ大学、グリフィス大学、マッコリー大学、ジェームズクック大学、タスマニア大学、から入学許可を得る。
・しかし、1学期目でドロップアウト。逃げるようにオーストラリアを去る。
・約300万円の投資で気づいた。勉強する場所も自分にとっては大事だったのだと。
 

2012年8月 メキシコへの逃亡と再留学

・チャピンゴ大学(メキシコの農業大学)で、"地方農村開発学”という過程に入学。
・書類提出の締め切りは過ぎていたものの、修士課程長が自分の研究計画に関心を示し、筆記試験、面接と進み合格。
・フィールドワークで普通の日本人が行かない非観光地に分け入る。
・それまでどこか見下していた、メキシコ人に助けられ、変な上から目線を改めた
・予定より少し時間はかかったが、2年半で無事卒業。
・論理的な文章を書く力、スペイン語の能力は人生MAXの状態に。
 

2014年7月 就職活動

中南米での政治・経済調査の仕事
中南米での国際協力の仕事 x 2
・メキシコ進出の日系自動車部品メーカーの仕事
 
・大学院後の社会復帰を視野に一時帰国して就職活動。
・迷った末、南米での政治調査の仕事を選択。
 
・しかし、(1) 2009年、青年海外協力隊エルサルバドル派遣; (2) 2011年の書類選考合格後に辞退したのに続いて、通算3度目となる国際協力の道を外れる選択。
・国際協力のコンサルタント会社は自分を評価してくれていたが、"1年のうち10ヶ月現場”という条件がネックで断念(すでに妻子がいた)。
 

2014年12月 ペルー勤務

・ペルーの政治を日々追いかけ、レポートを書く。
・ときどき、お偉いさんの通訳。
日系人に間違われる。
 
・金がなく、あまり旅行は行けず。
ナスカの地上絵は、以外にも見事だった。
・しかし、最初の旋回飛行で内臓がシェイク。残りのフライトはグロッキー。
(子供たちは大喜び)
・ペルーの海岸線の砂漠は、宇宙に来たような感覚になる。
 

2016年8月 就職活動

・同年4月から就職活動を開始。
・ちょうど仕事が忙しい時期だったが、夜中まで履歴書や職務経歴書を修正していた。
スカイプ等で転職エージェントと面接し、帰国前に4社との面接をセット。
・8月に3週間一時帰国。
 
・一番興味があった地元の変わり種メーカーから急にフラれる。相思相愛に見えていたのになぜ?という感じ。
・将来の役員、南米統括候補としてのオファーを断った。転職エージェントの方も非常に良くしてくれたので申し訳ない。人事の役員の方もすごく俺を評価してくれていた。街中でこの会社の看板を見る度、「オレ、判断誤ったかもな」と感じてしまう。
・結局、条件は最も悪いが、チャレンジ精神に溢れる気風の会社に決めた。
 

2017年6月 退職

・いろいろな事が重なり、退職。
・家から出るのも困難に。人とも目を合わせられなくなる。
・3日後のクレジットカードの引き落としをどう切り抜けるか思案中。
 

2017年7月 進路に悩む ←(今、ココ)

・メキシコに進出している自動車メーカーからオファーを受ける。
・この仕事で本当にいいのかと思い悩む。